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荒井個人に対する書籍は割りと少なく、原田朗氏のこれか、あとは戦中に発行された「海将荒井郁之助」
それと戦後まもなくあたりに発刊された逢坂信吾(吾の字が難しくて出ない)の「荒井郁之助とホーレスケプロン」(うろおぼえ)の三冊くらい。
一応全部持ってるけど(笑)
一番わかりやすくまとめられているのが、この人物叢書の荒井郁之助なんで、少しでも興味のある方はまずこれから読んでいただきたいな、という個人的なお勧めの本です。
本当は「海将荒井郁之助」のほうが正直読み物として面白いのですが、なんだか間違った解釈や思い込みも孕んでいそうなので。
(自分はそのノリ好きだけど)
事実やあった事柄をわかりやすく並べているのはこちらの方だと思います。
日本海軍の曙期にそれをささえ、日本の蘭学の最先端の技術を身につけ、日本での近代的地理学天文学の先駆けである荒井郁之助の一生をよく伝えているのではないかなと感じる。
荒井はどうしても榎本や大鳥、勝海舟などの人物よりも一歩下がった場所にいる、という印象が強いです。
実際に非常な謙遜家だったというから、その功績がほとんど世に伝わっていないのが非常に惜しいと私は思います。
荒井の書籍、というのはないのですが、たとえば「ものさし」という測量学・測量のための単位について言及された書籍やなんかにも荒井の名前を確認できるし、同様に天文関係気象関係測量関係水路図関係海軍関係英字教育関係北海道教育関係女子教育関係と、名前がちょこっと載っている、というのはわりと多いです。
「荒井郁之助」の5文字を探すためにどれだけ図書館回ったか。
・・・実際はこの書籍のあとがきに記されている本を探しただけですけどね!
荒井のかかわった翻訳・雑誌・執筆などもいくつか紹介が載っていますが現存していないものもあるようで、それが非常に残念。
少し不謹慎かもしれませんが、こういった事に関しても世界大戦系に憤懣の念を抱いてしまいます。
(荒井の手記など(史料資料史跡かかわらず)、戦中に焼失したものが多すぎる)
荒井存命中にも、荒井自身が「父の著作が残っていれば有益であったのに」と嘆じていながら(荒井本人は紛失したものと思っていたらしい)後年になって、写しかな?が発見されており、今でもそれは写しを手に入れることが出来ます。(11・23の日記、『牧民金鑑』)
そのときのように、ひょいと発見できたらいいのになあ、と願ってやみません。
※荒井郁之助の日記の写本が「海将荒井郁之助」に入っています。が、それは戊辰戦争突入時までの記事でしかなく、その後の箱舘戦争などの日記が紛失しているとの事です。
激しくどうでもいいけれども、こーやってアマゾヌさんのアフィリエイトを紹介ついでに張っているんだけれども、自分が購入した価格よりもずーっと低価格になってると軽くへこむ(笑
着眼点がとてもグローバリーゼーションで面白い
私自身が世界史をある程度わかる、ってくらいの知識しかないのですが、それでも十分楽しかった
榎本の留学前の対露関係なんかからはじまって(堀さんとか)
留学時代のクリミア戦争や幕末の動乱と諸外国の動向やら。
明治以後は榎本自身が外交へ積極的にかかわったこともあり、特に対露・対中(清?)関係に関して結構詳細に
でも中でもすごいなあと思ったのは、外国人日本人問わずいろんな人名がどんどん出てくる。
榎本はこれだけの人間や国と関わり、明治政府にいたのだなあ、と。
著者が榎本に対し、畏敬を持っている感じ
・・・本によっては、ホント悪者だもんな。榎本という人は。
当センターでは「開陽丸と榎本武揚」をテーマにした歴史入門講座を実施します。 |
歴史好きの町民、中高生の皆さんの受講をお待ちしております。 |
【日 時】 |
平成20年2月16日(土) 午後1時30分~(約2時間程度) |
【場 所】 |
財団法人開陽丸青少年センター管理棟研修室・開陽丸艦内 |
【講座内容】 |
江差町教育委員会学芸員が講師となり、分かりやすくご説明いたします。 |
講座1.開陽丸歴史入門 |
~「開陽丸と榎本武揚」(約1時間程度) |
講座2.眼で見る開陽丸 |
~「講師による展示資料の説明」(約1時間程度) |
うおおおお行きたい(´・ω・`)
もうこの日は予定埋まってていけないけど(´・ω・`)ダレカ イッテキテ カンソウキカセテ・・・
榎本が没後100年とのことで盛り上がっていますね。
彼が編纂した「牧民金鑑」は、当時の世相などを詳らかにする資料で、顕道(通称清兵衛)が著した江戸時代の社会経済史の根本史料。
・・・だそうです。(←
自分は社会経済などの分野はあまり詳しくないですし、読んでもない。
ただ、「牧民金鑑」に付録として掲載されている「荒井顕道略伝」は面白くて読みました。
荒井郁之助の父清兵衛の、出自・累進の過程や、蘭学と蘭学者との交わりなどかなり細かく述べられていて面白い。
たとえば荒井郁之助は、安藤文澤の娘の富を貰っているが、「幕府の制、直に之を娶る能はざるを以て、松本良甫養女と成して縁組願を済せり」だそうで。
荒井家は直参・安藤家が陪臣であり、身分が違うので一度松本順の父に養女としてもらい・・・、という事なのだろうけれども、その裏には割りといろいろな事情もまとわりついている、というような事も細かく史料を挙げて示していました。
詳細は・・・書くの面倒なので、興味持った人は読んでください(←)
簡単に言うと、別に直参の人が陪臣の子を娶るのは問題なかったそうですよ。
でも、松本家がいろいろ過去にゴタゴタあったこととかを加味して、友人でもあったらしい松本さんちに一度養女にしてもらって、そこからお嫁さんを貰ったという形をとったそうです。
こうした嫡子郁之助関連のみならず、松本家、荒井清兵衛の周りの成瀬家(清兵衛弟)、矢田堀家(清兵衛弟)、坪井家(清兵衛妹嫁ぎ先)や中村家(清兵衛妻の家)について、また清兵衛が就いた職業に関する事、あるいは清兵衛の代官時代に関することまで書かれています。
なお、これを編じた瀧川博士は、荒井陸男(荒井郁之助六男・画家)に、清兵衛・郁之助に関して書いてはくれないかとの打診があったがこれを断ったとのこと。
書けよ。
これだけ細かく調べている人は他にいないだろうに、もったいない。
瀧川博士は、同書で「荒井氏に関しては楠善雄氏が後で本出すし・・・」的な事言ってますが、出してないし。
楠氏も、荒井郁之助に関する著がどっかにあるらしいですが、天文の方?らしい?
わからない。
あれば見てみたいです。
とにかく、人見の資料の裏づけ作業大変だったろうなあ、と。
人見の資料を少しあたってみて気づくことなのだけれども、人見は人見自身が書き残していることは多いけれども、ほかの人間について語り残してはいない。
逆に、人見のことを語り残している資料というのも、あまり見当たらない。
人見が自身で書き残し、語り残している事はそこそこあれども、それを裏づけるのが大変そうだなあ、という感じ。
自分は諦めてましたが何か_ノ乙(ン、)_
しかし、読んでもやっぱり解せない、人見の戦争参画の理由。
彼は京都の御家人で、確かにそれなりに代々幕府の禄を食む人間であったと言えるけれど、京都の幕臣で人見ほど徹底抗戦に踏み切った人は他に居たっけな・・・?
人見は戊辰戦争の鏑矢、鳥羽・伏見戦争で江戸へ走り、以来京都に帰ることはなかった。
この本にあるとおり、彼の気性や当時の交友を鑑みれば、戦争に最後まで従事した事実はアリなのかもしれないけれども、何より不思議なのが彼が筆頭隊長を務めているという事。
遊撃隊の前身といえば、幕府お抱えの講武所なのだが、講武所の人間を差し置いて京都出身十俵三人扶持の人見が一番隊隊長に任命された理由が判らない。
その後、藩主であった林が参加した際も、その後の度重なる隊の再編成にも人見は筆頭隊長であり続けた。
林や伊庭は人見よりも若かったから、とかいろいろ理由は付けられることかもしれないけれども、やっぱり不思議。
さらに、榎本艦隊に身を投じた後は、榎本脱走軍という軍全体でのポジションとなるわけだが、箱館上陸そうそういきなり榎本の使者として嘆願書を持たされ先陣を任された(そういえば、品川脱走以前にも徳川家の使者隊に参加し、その任を果たしているからその経歴から榎本が人見を使ったのかな?)し、蝦夷平定戦争ののちは松前で戦後処理を勤め、そのまま松前奉行に任じられている。
なお、箱館榎本脱走軍において、奉行職を任じられた人間の中では最年少。
『一介の微臣たる彼が、なぜこのように勝ち目のない戦争に粘り強く参加したのかというきわめて素朴な疑問である。明確な政治的意識ももたず、優れた指導性もない彼が、いわば士族反乱戦争と目される後期東北戦争を持続的に戦いえたのは何故だろうか』(人見寧履歴書前文、青木昭)
どうしても人見が、こうした重要な役に任じられた理由が今ひとつピンと来ないのだけれども、一体何があったんだろう。
優秀だったから、という事なのかな?
それならば、もっといろんな人が人見について書き残してくれればいいのになあ、と思ったり。
特に榎本とか。
(明治以降榎本やその周辺との接点があまりないようだけれども、仲良くなかったんだろか・・・)
感想というより私の見解、いやむしろ私の疑問に思うこと。
でした。
この間の京都旅行で、人見氏の菩提寺さんへ墓参に行きました。
(公開しているお寺さんではないので事前にお電話したのですが、そのようなお墓や史跡の場合って、どのように訪問するのが一番いいのかいまだにいまいち判らない・・・。)
そしたら、少し解説してくださいました。ありがとうございました。
しかし、「若い子が墓参してくれて、いいねー」と言われてました。あはは。
でも、人見寧の写真は普通に結構な男前だと思いますよ、うん、格好良い。
林の殿様いわく、ちょっと太めだったらしいですが。
そんくらいの方が立派に見えて、良いじゃないですか。ねえ。
内容がぶってるよう(あたりまえだけど
記事の内容がちょっと違うのでよしとしよう。
幕末人物事件散歩と、江戸東京散歩。
二冊とも人文社さんですが、後者のほうがカラーでとっても見やすい上に、現代地図との比較もしていてわかりやすいです。
事件散歩も記事がいろいろ面白いよ
地図上で榎本の実家(榎本赤(円)兵衛)があるんですが(東都浅草絵図(1861)内、事件散歩の方には注釈もあり)
同じページに荒井精兵衛(荒井郁之助父)も載ってる・・・ちっちゃいけど。
榎本よりも家格は上だったはずだけど、家の大きさはあんま変わらんな。
赤坂明神下に人見勝太郎が一時居候してた遊撃隊隊士の山高の家を探そうと思って引っ張り出したんだけどなあ。
写真集なのに、本のサイズが文庫版なのがちょっと残念な気もするが、よく考えてみると(よく考えなくとも)幕末の写真って、鶏卵紙などの本当に小さな写真(名刺サイズよりも小さいよね)がほとんどなので、あまり不便はないのかも。
写真はちょうど明治に入るよりも前の写真が主。
なので明治時代の政治に携わった人よりも、幕末までに活躍した幕臣の写真などが多い。
どうしても人物写真が主の雑誌書籍だと、長州薩摩土佐関係が多くなり勝ちに感じるのだけれども、この写真集は旧幕勢力の写真が多いのでなんだか新鮮でした。
当時の日本人というのが、天然痘のために顔に痘痕が出来てしまう、という人も多かったわけで。
でも、当時の写真っていい具合に(笑)光で飛んで見えなくなってますね。
良い例だと、ちょっと時代が進んでしまうのだが夏目漱石とか。
彼も痘痕の跡が酷かったからといって、正岡との手紙のやり取りに、自ら「凸凹より」などと洒落に使っていたというエピソードもある。
でも、現在残っている夏目の写真で、痘痕が目立つ写真って見たことがない。
ところがというか、写りが宜しいというか、うまく光調整が出来ちゃったのか。
「痘痕が酷い顔」がしっかり写っている写真もあって、私はちょっと吃驚してしまった。
(人の顔で吃驚するのも失礼な話だけれども)
光の加減さえ上手い写真であれば、こんなにも鮮明に100年以上昔の人間の姿が残るのだなあという、変な感想も抱いた、って感じです。
特に幕臣や、海外留学生、海外渡航者の写真も多いですが、長州薩摩側の写真もそのほか風景や市井の写真もいろいろ載っていて面白い。
それこそ無名の方の写真もチラホラと。
女性の写真もあり、着物や帯の結び方なども結構興味深い。
文庫サイズだと思って、なんとなーく買ったけど、これ、面白いや
ところで、榎本脱走軍の写真もあるのだが
箱館幹部の集合写真で、「榎本、荒井、人見らの写真」(→これと同じ写真)
・・・人見勝太郎ドコに居るんだ。
小杉雅之進のご子孫様も監修として参加されています。
編者は合田一道。
星恂太郎の「紅蓮の如く」といい、なんてマイナーな人を取り上げるんだこの人。
出版社も北海道のマイナー出版ぽい。
パラパラと目を通してまず目に付くのが、小杉の人物描写。
のらくろよりもずっと時代は昔のはずなのに、とてもカラフルでコミカル。
箱館戦争で江差奉行並に任命された当時、まだ26歳の若い士官だったことも考えると、なんだかとても身近に感じる。
人物よりも榎本艦隊の艦隊描写もとても上手い。
絵心ある、というのはこういう人なのだろうなぁ、と感心。
小杉の書いた絵を見るのも面白い本
資料系の本って、写真とか絵が沢山あると、眺めるだけでも楽しいね
でも、なんで小杉は江差奉行並に抜擢されたんだろう?と疑問。
元は榎本の下で蒸気方・・・というと、機関士?
なぜそんな技術畑の人間を施政に。
榎本の信頼を得ていたんだろうか。
まあ、そんなこと言ったら江差奉行の松岡四郎次郎にせよ松前奉行の人見勝太郎にせよ
いわゆる軍人だったし、当時は軍も政も一緒くたに考えてただろうしなあ。
そういや小杉の上司の松岡四郎次郎って結局どんな人かわからない。
四郎なのか次郎なのかハッキリしたまい。今ハヤリの二重計上かよってんだ。
京都行った時のメモがあったので、転載しておいてみる。
人見家墓所の石碑(墓石)のメモ。
写真を撮ったわけではなく、メモったものなので、我ながら信用ならん(笑
人見止斎君墓
君諱定季字子静人見氏號齋通釋勝之丞
為人謹厚篤實目少小耽文字事親孝○官嘉
奨之先後師小沼大囿及牧戇齋研經餘暇詞
章曰慶応丙寅任文武場教官元治丁卯
徳川公在二條城召学士講經君興為賜銀若
干戊辰変後隠屏不出君以文化丁卯五月朔
日生明治辛未七月二十一日病没享年六十
四配清水氏有三男二女洛曰
長子定寧 吾識之矣 嶹嶇能堪
紘利善理 甞聞格言 利済邦国
不在地位 在千才徳 継者彊勉
日月進益 逝者泉攘 魂魄悦縲
明治辛未四年蝋月 静岡中邨正直選弁書
孝子定寧建
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人見夫人僊子之墓
夫人諱仙子清水氏父曰貞七年二十嫁為止斎先
生之配性温厚摯於情勤倹治家又善教兒女慈而
有則有三男二女長男曰寧様寧方幕府之未能畫
志於所事樹義声於天下後為茨城令有良二千石
之稹雖止斎先生教育所致亦不無○資於母氏之
訓也次男重明出嗣遠藤氏次女君子山村氏長女
政子三男定省皆夭夫人以明治三二年十一月二
十四歿距出文化十三年得壽八十有四荼毘洛西
龍安寺埋骨於長遠寺釋諱曰霊光院仙室崇壽大姉
明治三十三年 正四位勲三等田邊太一撰弁書
我ながら○ってなんだよ。
多分石碑も古かったのと、漢字が判らなくて読めなかったんだと思うけど。
人見の母の石碑には田辺太一が撰しているんだ、と今更ながら気づいてみる。
※このあと手に入れた「人見家の人々」に全文掲載されていました。なんたるちゃ。
御子孫の方が編纂したもの。
赤松自身の自伝もすごく読みやすくて読んでいて楽しい。
江戸表での勉学から長崎海軍伝習所での伝習、咸臨丸での渡米や築地海軍操練所、そして和蘭留学を瑞々しい視点で書いてあるのがとても面白い。
長崎海軍伝習所までの道中には、細かい父親から「旅のしおり」渡されていたり、咸臨丸での渡米で空砲撃つことにもてんやわんやしていたり、幕末の動乱と等身大の青年の姿の交錯が。
赤松を取り巻く人々の描写も多く、長崎海軍伝習生、和蘭留学生の人々もそれぞれ書き込まれている上、編纂している上で勝海舟や西周助らの日記も掲載されているので比較検証しているのも、見比べられて楽しい。
「人見勝太郎の遺品を展示しますので」と教えてくださった方がいまして、喜んで見に行った展示会の話。
手元のパンフレットには平成15年と書いてあるので、ざっと4年前の話です。
人見寧(勝太郎)は「土木県令」と呼ばれるほどに、茨城県令(県知事)時代には土木事業、特に治水事業には力を入れていました。
その中で一番力を入れたのが利根川と江戸川を結ぶおよそ8kmの利根運河の開削で、人見が加波山事件(民権運動)の責を負い、県令の職を解かれた後も、運河建設推進派の広瀬や色川らとともに株式会社を設立、自ら会社社長となって事業を貫徹しました。
(このため、人見・広瀬・色川の三人をして「利根運河の三狂生」と言われたそうです。)
なお、利根運河は東京と茨城間での水運に使われた運河であり、現在は導水路として使われていますが、水運の運河としては使われていません。
ちなみに、開削当時とは川の流れの向きが逆になっているそうです。
今は、豊かな自然をたたえる、とても静かな運河です。
で。
その利根運河の展示会があり、人見寧ご子孫様が人見寧の遺品を展示会に出したというお知らせをいただきました。
以下略