ぱんださんの愚痴と感情はけ口日記です。波がある性格の元SEです。アロマ好き。
歴史好きですが歴女とか言われるのはしっくり来ない10年選手です。
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自費出版の人見本ですが。
とにかく、人見の資料の裏づけ作業大変だったろうなあ、と。
人見の資料を少しあたってみて気づくことなのだけれども、人見は人見自身が書き残していることは多いけれども、ほかの人間について語り残してはいない。
逆に、人見のことを語り残している資料というのも、あまり見当たらない。
人見が自身で書き残し、語り残している事はそこそこあれども、それを裏づけるのが大変そうだなあ、という感じ。
自分は諦めてましたが何か_ノ乙(ン、)_
しかし、読んでもやっぱり解せない、人見の戦争参画の理由。
彼は京都の御家人で、確かにそれなりに代々幕府の禄を食む人間であったと言えるけれど、京都の幕臣で人見ほど徹底抗戦に踏み切った人は他に居たっけな・・・?
人見は戊辰戦争の鏑矢、鳥羽・伏見戦争で江戸へ走り、以来京都に帰ることはなかった。
この本にあるとおり、彼の気性や当時の交友を鑑みれば、戦争に最後まで従事した事実はアリなのかもしれないけれども、何より不思議なのが彼が筆頭隊長を務めているという事。
遊撃隊の前身といえば、幕府お抱えの講武所なのだが、講武所の人間を差し置いて京都出身十俵三人扶持の人見が一番隊隊長に任命された理由が判らない。
その後、藩主であった林が参加した際も、その後の度重なる隊の再編成にも人見は筆頭隊長であり続けた。
林や伊庭は人見よりも若かったから、とかいろいろ理由は付けられることかもしれないけれども、やっぱり不思議。
さらに、榎本艦隊に身を投じた後は、榎本脱走軍という軍全体でのポジションとなるわけだが、箱館上陸そうそういきなり榎本の使者として嘆願書を持たされ先陣を任された(そういえば、品川脱走以前にも徳川家の使者隊に参加し、その任を果たしているからその経歴から榎本が人見を使ったのかな?)し、蝦夷平定戦争ののちは松前で戦後処理を勤め、そのまま松前奉行に任じられている。
なお、箱館榎本脱走軍において、奉行職を任じられた人間の中では最年少。
『一介の微臣たる彼が、なぜこのように勝ち目のない戦争に粘り強く参加したのかというきわめて素朴な疑問である。明確な政治的意識ももたず、優れた指導性もない彼が、いわば士族反乱戦争と目される後期東北戦争を持続的に戦いえたのは何故だろうか』(人見寧履歴書前文、青木昭)
どうしても人見が、こうした重要な役に任じられた理由が今ひとつピンと来ないのだけれども、一体何があったんだろう。
優秀だったから、という事なのかな?
それならば、もっといろんな人が人見について書き残してくれればいいのになあ、と思ったり。
特に榎本とか。
(明治以降榎本やその周辺との接点があまりないようだけれども、仲良くなかったんだろか・・・)
感想というより私の見解、いやむしろ私の疑問に思うこと。
でした。
この間の京都旅行で、人見氏の菩提寺さんへ墓参に行きました。
(公開しているお寺さんではないので事前にお電話したのですが、そのようなお墓や史跡の場合って、どのように訪問するのが一番いいのかいまだにいまいち判らない・・・。)
そしたら、少し解説してくださいました。ありがとうございました。
しかし、「若い子が墓参してくれて、いいねー」と言われてました。あはは。
でも、人見寧の写真は普通に結構な男前だと思いますよ、うん、格好良い。
林の殿様いわく、ちょっと太めだったらしいですが。
そんくらいの方が立派に見えて、良いじゃないですか。ねえ。
とにかく、人見の資料の裏づけ作業大変だったろうなあ、と。
人見の資料を少しあたってみて気づくことなのだけれども、人見は人見自身が書き残していることは多いけれども、ほかの人間について語り残してはいない。
逆に、人見のことを語り残している資料というのも、あまり見当たらない。
人見が自身で書き残し、語り残している事はそこそこあれども、それを裏づけるのが大変そうだなあ、という感じ。
自分は諦めてましたが何か_ノ乙(ン、)_
しかし、読んでもやっぱり解せない、人見の戦争参画の理由。
彼は京都の御家人で、確かにそれなりに代々幕府の禄を食む人間であったと言えるけれど、京都の幕臣で人見ほど徹底抗戦に踏み切った人は他に居たっけな・・・?
人見は戊辰戦争の鏑矢、鳥羽・伏見戦争で江戸へ走り、以来京都に帰ることはなかった。
この本にあるとおり、彼の気性や当時の交友を鑑みれば、戦争に最後まで従事した事実はアリなのかもしれないけれども、何より不思議なのが彼が筆頭隊長を務めているという事。
遊撃隊の前身といえば、幕府お抱えの講武所なのだが、講武所の人間を差し置いて京都出身十俵三人扶持の人見が一番隊隊長に任命された理由が判らない。
その後、藩主であった林が参加した際も、その後の度重なる隊の再編成にも人見は筆頭隊長であり続けた。
林や伊庭は人見よりも若かったから、とかいろいろ理由は付けられることかもしれないけれども、やっぱり不思議。
さらに、榎本艦隊に身を投じた後は、榎本脱走軍という軍全体でのポジションとなるわけだが、箱館上陸そうそういきなり榎本の使者として嘆願書を持たされ先陣を任された(そういえば、品川脱走以前にも徳川家の使者隊に参加し、その任を果たしているからその経歴から榎本が人見を使ったのかな?)し、蝦夷平定戦争ののちは松前で戦後処理を勤め、そのまま松前奉行に任じられている。
なお、箱館榎本脱走軍において、奉行職を任じられた人間の中では最年少。
『一介の微臣たる彼が、なぜこのように勝ち目のない戦争に粘り強く参加したのかというきわめて素朴な疑問である。明確な政治的意識ももたず、優れた指導性もない彼が、いわば士族反乱戦争と目される後期東北戦争を持続的に戦いえたのは何故だろうか』(人見寧履歴書前文、青木昭)
どうしても人見が、こうした重要な役に任じられた理由が今ひとつピンと来ないのだけれども、一体何があったんだろう。
優秀だったから、という事なのかな?
それならば、もっといろんな人が人見について書き残してくれればいいのになあ、と思ったり。
特に榎本とか。
(明治以降榎本やその周辺との接点があまりないようだけれども、仲良くなかったんだろか・・・)
感想というより私の見解、いやむしろ私の疑問に思うこと。
でした。
この間の京都旅行で、人見氏の菩提寺さんへ墓参に行きました。
(公開しているお寺さんではないので事前にお電話したのですが、そのようなお墓や史跡の場合って、どのように訪問するのが一番いいのかいまだにいまいち判らない・・・。)
そしたら、少し解説してくださいました。ありがとうございました。
しかし、「若い子が墓参してくれて、いいねー」と言われてました。あはは。
でも、人見寧の写真は普通に結構な男前だと思いますよ、うん、格好良い。
林の殿様いわく、ちょっと太めだったらしいですが。
そんくらいの方が立派に見えて、良いじゃないですか。ねえ。
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