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この一文を読み下すと、人見氏(と梅沢氏)の学校は『毎日軍(いくさ)ごツこ』をやっていたらしい。(しかもごっこが強調されてる)
『取り立てた』とあるから人見と梅沢が開いたんでしょうか。
それにしたって
『其うち世は漸次に文化に向つて、さういふ物騷な學校の立ち行かう筈もないので、其中に潰れて了つた』
って・・・。
時代遅れだったという文句?(笑)
実際は漢英仏数学と仏式陸軍撃剣(つまりはフェンシング?)を教えていて、学校は放火にあってしまったと『人見寧履歴書』。
どっちが正しいのかな。
なお、「梅沢氏」というのは、京都から人見と行動をともにし、遊撃隊にも参加している人です。
あまり存在感はないですが、函館まで着いて来ている?んじゃないかな。
明治後も人見は梅沢氏に世話になっていたはず・・・。
(梅沢の父が京都で何か奉行をしていたような気が・・・)
この文を書いた塚原渋柿園(蓼洲)という人は幕末~大正にかけての時代小説家で、生まれは江戸ながら元治元年、17(多分数え)のとき二条城の定番となった旧幕臣。
慶応3年、講武所の縁のある人間とともに地方の開墾に従事し、武芸などに傾向するも幕府がつぶれたため静岡藩士になり、藩命を受けて明治3年に薩摩遊学。
帰省したのち浅間下の集学所にはいるがこれが潰れると教師になり、以後新聞社に勤めたりして風刺小説や時代小説の執筆をした人物。
何がすごいって、なんだかこの塚原、人見と一致する部分が多分にあるんですよね。
元冶年間は二条城で働き(人見は二条城で働いていたらしい)、講武所(のちの遊撃隊ですから・・・)と関係があり、静岡から薩摩遊学(しかも人見と同じ明治3年)に出て、人見の作ったという学校に入っているという。
どこかで出会っているかもしれない、というか会ってなきゃ可笑しいだろう、この経歴。
人見関連の資料では、塚原さんという人は見た覚えがありません。
見つけられていないだけかな。
ちなみにこの「兵馬倥偬の人」には土方歳三や近藤勇の名前もちょっとだけ見えたりします。
小惑星、というのはご存知でしょうか。
そして、ひとつひとつに名前がついているのもご存知でしょうか。
で、
小惑星5070番 arai(荒井)という星があるのは御存知でしょうか。
私も知りませんでしたが、どうやら発見者のアマチュアの天文学の方が、天文気象学の権威でもある荒井郁之助の名前をつけたようです。
郁之助は日本で始めて皆既日食の写真を撮った、というのでも(天文学界では)とても有名な人ですから、そう意味でつけられたんでしょう、と思います。
天体は見つけた人がどんどん名前を付けていってもいいもの、ではあるのですが、命名に関してなにか面白いエピソードがあれば聞いてみたいものです。
話の中で
「そういえば、新島襄が甲賀を褒めた落書きノートってどっかで見れますかね?」
という話題になって、
そんなんあったら自分も見てみたいと、同志社のサイト見てみたらありました。
ありました、落書きノート。びっくり。
たしか前はなかったはず。いつの間に公開したんだ。ナイス同志社
まず、計算問題を頑張ってる数字と記号しかないノートに突如として「天下天下英」と書き始め・・・
数ページあとの落書きにはしっかり「天下英雄甲賀源吾」とあります。
なぜか「甲賀源吾」を二回も書いています。
画像はいずれも同志社大学・新島遺品倉庫資料の公開「全面公開コース」で御確認どーぞ
(※上記検索ページから「甲賀」で検索してくださいな)
どういう心境の変化なのか。
新島襄にとっての甲賀はどんな存在だったのでしょうかね。
なんとなく、甲賀が教鞭をとっている授業内で
机隣り合わせの学友と、コソコソ落書きしてる
ってのを想像しました。
同様に「甲賀」で検索すると、「甲賀塾時代?のノート」という資料も見つかるのですが、そのノート表紙には「文久3年」とありました。
文久三年というと、甲賀源吾24歳(数え)。
この年齢で、英雄と落書きされる教師ってどんなんなんだろうか。
ちょっと笑える。
昨日購入した土方特集の歴史読本と一緒に購入した「別冊 太陽」の「明治維新百人」です。
73年(昭和48年)冬号
おお、自分の誕生日よりも古い。
かなりきれいな書籍なのに安いぜ600円ですた。
資料を写真がかなり満載で楽しい。
これも手に入れるか迷ったものの、やっぱりSW本と一緒に購入してきました。
百人一挙に紹介しているので、やっぱり一人ひとり取り上げる記事の大きさはは小さいのですが、写真眺めるのが楽しい雑誌ですね。
榎本も大鳥も乗っていますが、二人とも写真が旧幕時代のヒゲなし写真でした。
大鳥はともかく、榎本はそっちの写真より有名な写真あるだろうに・・・。
箱館戦争関係者だと、その二人と土方だけでした。
山田、黒田さえいなかった・・・。第二代総理大臣も載らないのか(´・ω・`)
最近「輪違屋」やったこともあって、新撰組関係で調べてたら、伊東甲子太郎、藤堂平助他御陵衛士の墓所のある戒光寺で、
「2007年6月中旬以降、戒光寺御陵衛士墓所は「不心得な参拝者のため」立ち入り禁止になりました。」
そうです。
「不心得な参拝者」というのが、実際どういう事をしたのかはうかがい知ることはできませんが、非常に残念でなりません。
そういえば、私も一度この戒光寺の御陵衛士墓所も訪れた事があるのですが、お供え物としてでしょうか、お酒のボトルとか、なんか千羽鶴みたいなものが供えてあったような記憶が・・・
基本的にお墓にお供え物は禁止です。
御陵衛士の墓所にまで参拝する方々ならば、沖田総司の墓所の例を知っていると思うのですが。
そこに眠る人物を好きだといいながら、そこのお寺に迷惑をかけて、結局墓所封鎖に追い込んでしまうのはなんだかなあ、と思うのです。
もともと墓所というのは、死んだ人物の霊を祭る場所です。
また、関係のない墓参者が増えるとお寺さんの負担ばかり増えるだけ。
墓所の所有しているお寺さんがダメだと判断すれば、墓参することができなくなるのは当然といえば当然なのですけれども・・・。
最近はいろいろなメディアでいろいろ取り上げられるようになって、それこそ非常識なファンも増えていると聞きます。
炎のミラージュの全盛時代とかひどかったと聞いてますし、いまだに戦国無双とかBASARAなど・・・。
なんとかならないかなあ。
関係リンク:
誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士(御陵衛士の墓所の公開中止に関して)
史跡・墓参マナーサイト
日焼けの後が。(一発変換で「日焼けの阿斗」と出た三国演義なPCもどうよ)
ビローンと剥ける時期はもう過ぎてしまったようで、もうアカですよ垢。
ボロボロと剥ける剥ける。
アカスリ用タオルで擦ったら、まだ痛かったです。
でも気持ちいいくらい皮が取れます。
まあ、汚い!
いや、汚くないよ。
戦国無双、幸村クリアしました。今、お市ちゃんやってます。
私は好きなものは阿斗(一発変換)に残す性格なので、気になってる
幸村は「義」と「友」を叫びすぎで恥ずかしいです。
お市ちゃんは、無双無印の頃のヤンチャなイメージからかけ離れてしまって、無双2のキャライメージと武器(剣玉)がまったく合いません。
長政さまとおにーさまにはさまれ煩悶しつつ剣玉で武将を討ち取る儚げ少女・・・斬新すぐるよコーエー。
と、探してみたら結構ありました、安藤太郎の資料。
まあ、それでも少ないですが。
・・・いや、でも荒井郁之助より多い。
国立国会図書館デジタルアーカイブポータルで「安藤太郎」検索したら、こんなに。
と、いっても公文書というか、数多くの電報(5ページ程度)も含んでいるので、書籍がたくさんあるということでもないので、この休みにでも読んでみようかなあとか・・・
・・・・うむ、手書き多数とか・・・orz<読みにくいいいいいいい
電報内容は、多分清書されているのであろう文体なので、読めなくはないのですが読みにくい。
とかく読みにくい。
公文書なら活字にしやがれちーくしょー。・゚(ノД`)゚・。
と、ブツブツいいながらちょっと読んでみます。
この間から気になってる黒田の醜聞事件ですが(気にしすぎです自分)
ちょうどその「明治17年」の電報で「在上海領事安藤太郎電報償金ヲ払フヘシトノ本旨ハ遂ニ仏国公使及両江総督曽国筌ノ間ニ協議ヲ得タルノ件」というのがありまして、「明治17年」「フランス」「償金」という単語で、すわ黒田のアレか、と思ってみたものの、どうも仏清事件(清仏戦争?)に関するもの?
いや、実は軽く読み流したので判らないです。
なんで日本が「償金を払うべし」なんだろう。
ちょっと前後の電報とかも見比べてちゃんと読んでみようか。
いや、これはこの時代のほかの人間の資料とか見たほうがいいんだろうか、井上馨とか。(当時の外務大臣?)(安藤の電報の宛先が井上と三条実美)
ところで安藤の資料は検索すると「キリスト教」「禁酒」「駐在大使」の三つくらいしかないのですね。あと、時々農商務省くらい。
判りやすい。
安藤太郎の記事で「禁酒の使徒 安藤太郎伝」というのがネット上にあります。
安藤太郎に関する記事があるのですが、キリスト関係の新聞に掲載された記事のコピーらしいのですが・・・。
ここの記事で、黒田清隆の失態を指摘した記事があります。
明治17年、安藤は上海領事館に勤めていたということです。
「黒田の失態というのはこういうことである。フランス・ホテルに滞在中、黒田は給仕の中国人ボーイの一少年を、酒のなせる妄念で犯し、醜聞の種を蒔いてしまったのである。」(上記「安藤太郎伝」から)
思いっきり醜聞ですね。
ところがこのことに関して、手持ちの資料を少し見比べたのですが、ほかの資料では見当たらない。
(私の手持ちの資料ってのが、箱館戦争とその人物周辺に特化してるので、見当たらないだけか・・・。)
ここで黒田は、と調べてみると、ちょうど明治17年には、韓国問題に関して日清関係を強めるために、「私的な旅行」をしています。
といっても公金が降りているので、ほぼ公的な旅行です。
同時期に伊藤博文も清国へ渡っています。
なお当時、榎本は清国の全権駐在大使でした。
まあ、当時の上海領事館に居た安藤ほか、いろんな人がもみ消しに奔走したのだろうから簡単に見つかっちゃダメなのかもしれない(?)けれど。
一応、今所持してる書籍で一番黒田に関して詳細に記載されているであろう、井黒弥太郎氏の「人物叢書 黒田清隆」をさらっと確認しましたが、「清国大使だった榎本と酒飲んでた」ってだけで(やっぱ飲んでるよこの人)、上記の安東太郎伝に書いてあるような醜聞についてはまったく触れられていませんでした。
そしてついでに、安藤太郎伝での「醜聞」があったとされる明治18年は黒田45歳にして、やっと念願の男子が生まれた年でもあります。
ダメじゃん。
「表沙汰にならないで済んだことは、不幸中の幸いだったが、「これを榎本公使に報告しなければならないのはツラい」と安藤は嘆じた。」(安藤太郎伝より)
日本政府じゃなくて、榎本に報告するんか。(そりゃ駐清特命全権大使ですからそうなのだろうけど)
しかもイヤそうです。なんだそら。
ただ、上記サイト内には、「新聞に載せた」と記載してあるだけなので、参考とした書籍は特に記載されていません・・・ので、どこから拾ってきたネタなんだろう、という疑問はありますけども・・・。
安藤に関する詳細な書籍とか、安藤の日記とかあったのかな・・・?
安藤本があったら読みたいくらい、安藤が気になるこの頃です。
輪違屋糸里~女たちの新撰組~見ました後編。
上戸さんは、「かわいいけど凛とした役」が本当にハマリ役ですね
李香蘭のときも美空ひばりのときも、すごいなあと思ったものです。
歌も上手いしね。
輪違屋の全体の感想としては、ああ、やっぱり浅田次郎だなあ、と。
人間模様の豊かさはこの作者さんの十八番ですね。
そして、浅田さんはこの時代に関してとても博識だから、細かいところまで描写がなされてて楽しかったです。時間制限のあるテレビドラマにしても4時間も時間とってくれたし、そこそこ描写してくれていたのではないかと。
永倉の葛藤とか、芹沢派も一括りにしないでそれぞれが丁寧に人物描写とストーリーがあって面白かったです。
で。
なんで原田はいつも、あの役どころなんだろうなー。
今回の作品だけじゃなく、原田左之助って、いつもイエローレンジャーな気がする。
いかにも馬鹿そうで(←笑)槍抱えて、着物も肌蹴たような着方で・・・
新撰組の隊番は、若い順から実力のある隊だと言われている上、原田は十番隊。
どこかの小説だかに、原田が一番弱い?みたいなことが書かれていたけれどもね。
実際、行軍した場合を考えると原田の位置は軍の殿(しんがり)
もっとも重要な場所のひとつです。
さらに荷駄方の取り締まりも原田だった、というような文も目にした覚えがあります。
荷駄方も、軍という単位で考えてみれば非常に重要な物資の部分です。
また、原田はいわゆる「美形」と言われていたようですが、この時代の「美形」はは顔かたちだけじゃなく、立ち振る舞いなんかも対象となるんじゃなかったっけかな?
なので、原田のイエローレンジャー的ポジションには異議を申し立てたい。
・・・オモに、司馬リョだけどね、イエロレンジャな原田君は・・・
いや、司馬リョの新撰組隊士大好きだけどね
キャスティングがすごい豪華でしたね。
的場なイサミは正直ヤンチャ局長キターーーー!!!って感じですごい好印象でした(笑)
伊藤君の土方は・・・ 伊藤君が私の中で「うっかりキャラ」なのでちょっと違和感
でも、思ったより格好よく好演技でよかったです。
そして芹沢。
うわー、悪い顔だ!!!!(印象)
んで、糸里はかわいらしいですね。
京都行きたくなってきた(*´ω`*)
歴史系の書籍の豊富さとマニアックさでお世話になりっぱなしのあの会社。
あのですね。
母の同級生が医療関係の編集などをやってる方がいるのですが。
編集つながりで新人物に知り合い多数だそうです。
しかもジャンル違うのに、何故か毎年の集まりに参加してるそうです。(以前たまたまお仕事を一緒したことがあるというご縁だそうで)
「ぱんだちゃん好きなんだね~、今度の集まりに呼んであげようか」
ええええええガクガク(((((;゚Д゚)))))ブルブル
行きたいけど!行きたいけど!!本音行きたいですが!!
知識もないただのミーハーだし、ああああでも行きたい
だけど、編集者のあつまりですよ、その世界のプロの集まりですよ恐ろしい!!!
とりあえず、「こんな若い子がたくさん人物往来の本もってたってこと、みんなに知らせなきゃv」と言われました。すんませんほとんど全部古本買いです(;´Д`)
安藤太郎は鳥羽藩の安藤文沢の長男と言っていますが、文沢も江戸仕えであったので、太郎自身は江戸生まれの江戸育ちのはずです。
生まれは弘化三年四月(1846)なので、榎本・荒井・大鳥辺りから見ると、ちょうど10歳ほど若い世代の青年であったと言えます。
父である安藤文沢は江戸でも有名な蘭医学者として、名前が知られていたようで、安藤文沢の塾に勉学する人も数多くいた模様。
太郎は、父を見て育ったためか、蘭学に非常に関心を持ち、坪井や箕作と言った蘭学の権威ある塾で蘭学を学んでいました。
また、江戸の青年時代に大鳥の噂を聞いていたようで、「大鳥圭介伝」で「大鳥様(さん)を知ったのは16歳の頃で、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介の三人が有名であった」と書き残しています。
ただ、彼自身が大鳥に師事したかどうかは判りません。(多分この頃は面識がなかったと思われます)
安藤はその後、幕府に召抱えられ幕府の軍艦操練所に入ります。
父文沢が、荒井家と交流があったためもあり、この後太郎は荒井郁之助と行動をともにします。