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ぱんださんの愚痴と感情はけ口日記です。波がある性格の元SEです。アロマ好き。 歴史好きですが歴女とか言われるのはしっくり来ない10年選手です。
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『靜岡の醫學校に入(はい)つたが、其處(そこ)から藩命で薩摩に遊んで、諸藩の書生と付き合つたが、それが私(わし)の放浪生活の初めでもあつたらう。それから歸つて人見寧(ひとみやすし)、梅澤敏(うめさわとし)などゝいふ人の取り立てた靜岡の淺間下(あさました)の集學所といふに入(はい)つた。其の集學所に居る人間は函館(はこだて)の五稜廓(ごりやうかく)の討ち洩らされといふ面々だ。總勢すぐツて百四五十人ばかり。毎日軍(いくさ)ごツこ[#「ごツこ」に傍点]のやうな眞似ばかりして居たが其(その)うち世は漸次(しだい)に文化に向つて、さういふ物騷(ぶつさう)な學校の立ち行かう筈もないので、其中(そのうち)に潰れて了つた。それから私(わし)は田舍の學校の教師になつた。』(青空文庫兵馬倥偬の人」塚原蓼洲著)

この一文を読み下すと、人見氏(と梅沢氏)の学校は『毎日軍(いくさ)ごツこ』をやっていたらしい。(しかもごっこが強調されてる)
『取り立てた』とあるから人見と梅沢が開いたんでしょうか。
それにしたって
『其うち世は漸次に文化に向つて、さういふ物騷な學校の立ち行かう筈もないので、其中に潰れて了つた』
って・・・。
時代遅れだったという文句?(笑)
実際は漢英仏数学と仏式陸軍撃剣(つまりはフェンシング?)を教えていて、学校は放火にあってしまったと『人見寧履歴書』。
どっちが正しいのかな。 
なお、「梅沢氏」というのは、京都から人見と行動をともにし、遊撃隊にも参加している人です。
あまり存在感はないですが、函館まで着いて来ている?んじゃないかな。
明治後も人見は梅沢氏に世話になっていたはず・・・。
(梅沢の父が京都で何か奉行をしていたような気が・・・)


この文を書いた塚原渋柿園(蓼洲)という人は幕末~大正にかけての時代小説家で、生まれは江戸ながら元治元年、17(多分数え)のとき二条城の定番となった旧幕臣。
慶応3年、講武所の縁のある人間とともに地方の開墾に従事し、武芸などに傾向するも幕府がつぶれたため静岡藩士になり、藩命を受けて明治3年に薩摩遊学。
帰省したのち浅間下の集学所にはいるがこれが潰れると教師になり、以後新聞社に勤めたりして風刺小説や時代小説の執筆をした人物。

何がすごいって、なんだかこの塚原、人見と一致する部分が多分にあるんですよね。
元冶年間は二条城で働き(人見は二条城で働いていたらしい)、講武所(のちの遊撃隊ですから・・・)と関係があり、静岡から薩摩遊学(しかも人見と同じ明治3年)に出て、人見の作ったという学校に入っているという。
どこかで出会っているかもしれない、というか会ってなきゃ可笑しいだろう、この経歴。
人見関連の資料では、塚原さんという人は見た覚えがありません。
見つけられていないだけかな。


ちなみにこの「兵馬倥偬の人」には土方歳三や近藤勇の名前もちょっとだけ見えたりします。

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