ぱんださんの愚痴と感情はけ口日記です。波がある性格の元SEです。アロマ好き。
歴史好きですが歴女とか言われるのはしっくり来ない10年選手です。
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安藤太郎に関する記事を少し書き連ねてきたので、安藤太郎本人について少し書き連ねておこうかと。
安藤太郎は鳥羽藩の安藤文沢の長男と言っていますが、文沢も江戸仕えであったので、太郎自身は江戸生まれの江戸育ちのはずです。
生まれは弘化三年四月(1846)なので、榎本・荒井・大鳥辺りから見ると、ちょうど10歳ほど若い世代の青年であったと言えます。
父である安藤文沢は江戸でも有名な蘭医学者として、名前が知られていたようで、安藤文沢の塾に勉学する人も数多くいた模様。
太郎は、父を見て育ったためか、蘭学に非常に関心を持ち、坪井や箕作と言った蘭学の権威ある塾で蘭学を学んでいました。
また、江戸の青年時代に大鳥の噂を聞いていたようで、「大鳥圭介伝」で「大鳥様(さん)を知ったのは16歳の頃で、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介の三人が有名であった」と書き残しています。
ただ、彼自身が大鳥に師事したかどうかは判りません。(多分この頃は面識がなかったと思われます)
安藤はその後、幕府に召抱えられ幕府の軍艦操練所に入ります。
父文沢が、荒井家と交流があったためもあり、この後太郎は荒井郁之助と行動をともにします。
安藤太郎は鳥羽藩の安藤文沢の長男と言っていますが、文沢も江戸仕えであったので、太郎自身は江戸生まれの江戸育ちのはずです。
生まれは弘化三年四月(1846)なので、榎本・荒井・大鳥辺りから見ると、ちょうど10歳ほど若い世代の青年であったと言えます。
父である安藤文沢は江戸でも有名な蘭医学者として、名前が知られていたようで、安藤文沢の塾に勉学する人も数多くいた模様。
太郎は、父を見て育ったためか、蘭学に非常に関心を持ち、坪井や箕作と言った蘭学の権威ある塾で蘭学を学んでいました。
また、江戸の青年時代に大鳥の噂を聞いていたようで、「大鳥圭介伝」で「大鳥様(さん)を知ったのは16歳の頃で、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介の三人が有名であった」と書き残しています。
ただ、彼自身が大鳥に師事したかどうかは判りません。(多分この頃は面識がなかったと思われます)
安藤はその後、幕府に召抱えられ幕府の軍艦操練所に入ります。
父文沢が、荒井家と交流があったためもあり、この後太郎は荒井郁之助と行動をともにします。
なお、荒井の奥方が安藤の実の姉のとみ子ですが、荒井の家格が高かったために、安藤家から一度松本良甫(松本良順父)の養女となった後嫁入りしています。(郁之助の最初の妻は死別しているので二人目の奥さんです)
そのため、荒井家墓所に、郁之助の墓石の横に彼女の墓が「松本女」という表記がされていたと記憶していますが、実際は安藤の実姉です。
後に太郎は荒井の妹のふみ子をお嫁さんにもらっているので重縁となります。
太郎が晴れて軍艦操練所に入って海軍士官となったはいいが、陸軍に飛ばされた荒井と同様、どうも太郎も陸軍に移籍したことがあるようです。(「大鳥圭介伝」で仏式練兵を行ったという記述あり、この頃に大鳥と出会った、とも)
その後は海軍に戻り、回天に乗り込んで慶応三年の品川沖の薩摩艦との衝突(同時進行で陸軍が薩摩藩邸を焼打ちした)に勝利したのが太郎の最初の実戦であったと言うことです。
慶応四年(1868)、榎本率いる脱走軍は品川湾を脱走。
太郎も回天の仕官としてここに参加しました。
明治二年(1869)三月、太郎23歳、宮古湾海戦に参加、右腕を負傷。
明治二年五月に、結局榎本は降伏するわけだが、安藤は「負傷し、そのまま終戦となった」とあるので、官軍による箱館総攻撃時の箱館湾の海戦にて再び負傷したのだろうと予測。(宮古の傷とは考えにくい)
安藤は負傷したまま終戦となり、一時は捕えられて謹慎処分となるが、明治になると榎本・荒井らより先んじて政府に召抱えられ、主に外交の仕事に付くことに。
これは、安藤の親類縁者の影響も大きく、荒井と安藤の叔父である成瀬善四郎、荒井・安藤とは義兄弟(荒井の妹婿のため)の田辺太一や友人で榎本などとも知己の林薫など、とかく周りに外交に携わる人間が多かったことや、安藤自身が蘭学・英語などを修めていたため、必然的にこうしたチームに入れられたようですね。
この後の安藤の行動は、岩倉の使節団に参加。
上海総領事、香港総領事、ハワイ総領事などを歴任。
また、ハワイ領事時代にキリスト教に改宗し、後年には自ら教会を建てて説法に立つなど熱心に活動したそうです。また、同時期に禁酒運動をはじめ、日本における禁酒活動の鏑矢となりました。
と、簡単に略歴を書き連ねてみました。
もっと詳しくは、現在の日本禁酒同盟サイトに、詳細な記事が掲載していますので、そちらを読んで見るのも面白いと思います。
特に黒田のアチャー(ノ∀`)な話なんかは、笑え・・・ねえ(酒で国際問題/苦笑)
現在も東京麻生に、安藤自身が奥さんであるふみ子夫人の遺志として建築したといわれる安藤記念教会が残っています。
大正時代の建築物としても史跡として残されているようなので、是非、一度行ってみたいものです。
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