ぱんださんの愚痴と感情はけ口日記です。波がある性格の元SEです。アロマ好き。
歴史好きですが歴女とか言われるのはしっくり来ない10年選手です。
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安藤太郎関連の記事が続いているので更に。
安藤太郎がハワイ領事時代に洗礼を受けた際の安藤自身の手記を本に興したものです。
小冊子程度で、国会図書館にてマイクロフィッシュで閲覧・コピー可能。
もう一つの安藤の手記、「酒ト人」と同様に30ページに満たない書籍。
内容は、安藤の心境とキリスト教の洗礼を受けるまでになったか、というもので、
洗礼を受けるにいたるまでの彼自身の心境の変化をミサの際に説教で少し講談したらしく、
教会の牧師が、「冊子にしないか」と持ちかけて、ちょっとした冊子にしました、て感じなのかな。
幕末までは、医家に生まれながらも武士をこころざし、豪放磊落な人であったように見受けられるのですが、やはりキリスト教にせよなんにせよ、「バカらしい」という先入観が最初にあったようです。
ただ、ハワイ領事になると、
ハワイ在住の日本人たちの道徳の低さに頭を悩ましていたこと、
美山宣教師(確か荒井郁之助とも交流があった人だったような記憶が・・・)が、ハワイ住の日本人にキリストのしえを広めているところ、洗礼を受けた日本人の更正が甚だしかったので、
「流石耶蘇(やそ・キリスト教)嫌ひの私も是には実に辟易しまして、此れ程迄にも「キリスト」教と申者ハ風俗矯正ニ効能の有る者か」
と、ミサに通い、聖書などを読みはじめます。
そして飽きます。(笑)
ミサには、「付き合いで顔を出した」と言っています。
そして、「研究もしないで毛嫌いするのもなんだなー」ということで聖書を読もうとします。
旧約聖書の頭から熟読しようとしてたようです。
私でさえそんなコトしたことないです(←一応キリスト教徒)
旧約聖書は読んだ方いるかわかりませんが、日本書記みたいな内容です。
どこのだれからだれだれとだれだれとだれだれが生まれて、この王の子のだれだれがだれだれのとだれだれを生んで云々。
しかも、当然英語ですから「カタカナの名前ばっかでつまらん」みたいなコトを言ってます。
そら誰だってイヤになるわ。
奇跡だなんて非科学的だ魔法だ信じられない、みたいな感覚もあったようで、最初はキリスト教に強い抵抗感を持っていたというのが伺えます。

結局は、宣教師から進められた書籍などで、いろいろと腑に落ちて納得したー、といって洗礼を受けたわけですが、この「布哇受洗之始末」を読んだ感想としては、安藤は負けず嫌いなのだなあ、と感じました。
何度も聖書投げ出そうとして、「ここまで研究したのに畜生」の根性で何度も挑みかかっていたようなので。
安藤太郎がハワイ領事時代に洗礼を受けた際の安藤自身の手記を本に興したものです。
小冊子程度で、国会図書館にてマイクロフィッシュで閲覧・コピー可能。
もう一つの安藤の手記、「酒ト人」と同様に30ページに満たない書籍。
内容は、安藤の心境とキリスト教の洗礼を受けるまでになったか、というもので、
洗礼を受けるにいたるまでの彼自身の心境の変化をミサの際に説教で少し講談したらしく、
教会の牧師が、「冊子にしないか」と持ちかけて、ちょっとした冊子にしました、て感じなのかな。
幕末までは、医家に生まれながらも武士をこころざし、豪放磊落な人であったように見受けられるのですが、やはりキリスト教にせよなんにせよ、「バカらしい」という先入観が最初にあったようです。
ただ、ハワイ領事になると、
ハワイ在住の日本人たちの道徳の低さに頭を悩ましていたこと、
美山宣教師(確か荒井郁之助とも交流があった人だったような記憶が・・・)が、ハワイ住の日本人にキリストのしえを広めているところ、洗礼を受けた日本人の更正が甚だしかったので、
「流石耶蘇(やそ・キリスト教)嫌ひの私も是には実に辟易しまして、此れ程迄にも「キリスト」教と申者ハ風俗矯正ニ効能の有る者か」
と、ミサに通い、聖書などを読みはじめます。
そして飽きます。(笑)
ミサには、「付き合いで顔を出した」と言っています。
そして、「研究もしないで毛嫌いするのもなんだなー」ということで聖書を読もうとします。
旧約聖書の頭から熟読しようとしてたようです。
私でさえそんなコトしたことないです(←一応キリスト教徒)
旧約聖書は読んだ方いるかわかりませんが、日本書記みたいな内容です。
どこのだれからだれだれとだれだれとだれだれが生まれて、この王の子のだれだれがだれだれのとだれだれを生んで云々。
しかも、当然英語ですから「カタカナの名前ばっかでつまらん」みたいなコトを言ってます。
そら誰だってイヤになるわ。
奇跡だなんて非科学的だ魔法だ信じられない、みたいな感覚もあったようで、最初はキリスト教に強い抵抗感を持っていたというのが伺えます。
結局は、宣教師から進められた書籍などで、いろいろと腑に落ちて納得したー、といって洗礼を受けたわけですが、この「布哇受洗之始末」を読んだ感想としては、安藤は負けず嫌いなのだなあ、と感じました。
何度も聖書投げ出そうとして、「ここまで研究したのに畜生」の根性で何度も挑みかかっていたようなので。
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