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ぱんださんの愚痴と感情はけ口日記です。波がある性格の元SEです。アロマ好き。 歴史好きですが歴女とか言われるのはしっくり来ない10年選手です。
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先週土日を使って京都へ遊びに行きました。

その中で、いままで何度も京都に足を運びながら一度も行っていなかった二条陣屋へ足を運ぶことに。



もともと二条陣屋の見学が「予約が必要」だということと、「時間厳守らしい」ということを聞き知っていたので、なかなか行こうと思わずにいた場所でした。
今回初めて行くことになったのは、ご一緒してくださった心優しいご一同のおかげです。ありがとうございました。


そして「時間厳守」なのに遅れる一同。←
や、一分二分の差だけどね!
行ったら説明がちょうど始まったトコだったし。


入ってすぐ案内された部屋には隠し部屋があり、能舞台が屋内にあり。
室内で、かつ音響効果も設計に組み込まれた、カラクリの障子に炉がある部屋各種。
防災、防火の工夫もそれぞれあって、火災には塗らしたむしろで家を覆い、火事を防ぐんだとか。
二畳半の小さな茶室と、三角形な上に逃走経路でもある水屋と、カラクリ階段。
二階は日本家屋とは信じがたい広さに、やっぱり炉のある部屋各種。
屋内なのに、船の中のような作りと、床を踏み鳴らせば艪をこぐような音、滑車の下にはすぐに井戸。
これで塗らした筵を引き上げて防災にあてるんだそうだ。
そして隠し階段と、それを利用した落とし穴。

明り取りの窓からの影と、窓の格子を読んで大体の時刻が判る日時計があったり
押入れと思いきや侍溜りへ抜けられる逃走経路、かつ扉を開けると逃げ道方向が閉まって追いかけることができない作りだったり。
なにせ行ってみないと判らない。
一度は行ってみてほしい場所かもしれない。



そして、いちいち感動するウチら一同は良い客だったよ、きっと(笑
はじめは最後に駆け込んで、終わりも最後まで居座り、ガイドのおばちゃんといろいろお話させていただけました。



いわく、現在も二条陣屋は個人宅だということ。
(実際は「二条陣屋」という名前ではなく、「小川家住宅」が正式名称です)
いわく、「陣屋」という名称は昭和になってから使われたというもの。
というのも、京都に「陣屋」を作ることは許されておらず(京都に大名が留まるのを防止するため)、かといって大名の中でも京都近辺に邸宅も持てない小大名では、京都滞在の際に泊まることのできる施設はなく、二条城の出入り商屋であった当主が命ぜられて、「陣屋っぽい」ことをはじめたそうです。

あと、「緻密な設計で作られたんだろうなあ」と感心していたのに、実は当時の家の主人が「ここにコレ作ったらいいんじゃない?」的に改築をし、30年の年月をかけて今の形までリフォームを繰り返したそうです。
「ヘー」ボタンの上限が20じゃ足りないです、ここ。


関連リンク:Web-Twon京都 二条陣屋

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自分が持っている江戸・東京地図は二冊なんですが。

内容がぶってるよう(あたりまえだけど


記事の内容がちょっと違うのでよしとしよう。
幕末人物事件散歩と、江戸東京散歩。
二冊とも人文社さんですが、後者のほうがカラーでとっても見やすい上に、現代地図との比較もしていてわかりやすいです。
事件散歩も記事がいろいろ面白いよ


地図上で榎本の実家(榎本赤(円)兵衛)があるんですが(東都浅草絵図(1861)内、事件散歩の方には注釈もあり)
同じページに荒井精兵衛(荒井郁之助父)も載ってる・・・ちっちゃいけど。
榎本よりも家格は上だったはずだけど、家の大きさはあんま変わらんな。



赤坂明神下に人見勝太郎が一時居候してた遊撃隊隊士の山高の家を探そうと思って引っ張り出したんだけどなあ。


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ちくま学芸文庫から出ている幕末の人物写真に特化した本。
写真集なのに、本のサイズが文庫版なのがちょっと残念な気もするが、よく考えてみると(よく考えなくとも)幕末の写真って、鶏卵紙などの本当に小さな写真(名刺サイズよりも小さいよね)がほとんどなので、あまり不便はないのかも。


写真はちょうど明治に入るよりも前の写真が主。
なので明治時代の政治に携わった人よりも、幕末までに活躍した幕臣の写真などが多い。
どうしても人物写真が主の雑誌書籍だと、長州薩摩土佐関係が多くなり勝ちに感じるのだけれども、この写真集は旧幕勢力の写真が多いのでなんだか新鮮でした。


当時の日本人というのが、天然痘のために顔に痘痕が出来てしまう、という人も多かったわけで。
でも、当時の写真っていい具合に(笑)光で飛んで見えなくなってますね。
良い例だと、ちょっと時代が進んでしまうのだが夏目漱石とか。
彼も痘痕の跡が酷かったからといって、正岡との手紙のやり取りに、自ら「凸凹より」などと洒落に使っていたというエピソードもある。
でも、現在残っている夏目の写真で、痘痕が目立つ写真って見たことがない。

ところがというか、写りが宜しいというか、うまく光調整が出来ちゃったのか。
「痘痕が酷い顔」がしっかり写っている写真もあって、私はちょっと吃驚してしまった。
(人の顔で吃驚するのも失礼な話だけれども)
光の加減さえ上手い写真であれば、こんなにも鮮明に100年以上昔の人間の姿が残るのだなあという、変な感想も抱いた、って感じです。


特に幕臣や、海外留学生、海外渡航者の写真も多いですが、長州薩摩側の写真もそのほか風景や市井の写真もいろいろ載っていて面白い。
それこそ無名の方の写真もチラホラと。
女性の写真もあり、着物や帯の結び方なども結構興味深い。
文庫サイズだと思って、なんとなーく買ったけど、これ、面白いや


ところで、榎本脱走軍の写真もあるのだが
箱館幹部の集合写真で、「榎本、荒井、人見らの写真」(→これと同じ写真
・・・人見勝太郎ドコに居るんだ。


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江差奉行並も務めた小杉雅之進が書き残した絵画一般や、小杉に関する資料などなど。


小杉雅之進のご子孫様も監修として参加されています。
編者は合田一道。
星恂太郎の「紅蓮の如く」といい、なんてマイナーな人を取り上げるんだこの人。
出版社も北海道のマイナー出版ぽい。


パラパラと目を通してまず目に付くのが、小杉の人物描写。
のらくろよりもずっと時代は昔のはずなのに、とてもカラフルでコミカル。
箱館戦争で江差奉行並に任命された当時、まだ26歳の若い士官だったことも考えると、なんだかとても身近に感じる。
人物よりも榎本艦隊の艦隊描写もとても上手い。
絵心ある、というのはこういう人なのだろうなぁ、と感心。
小杉の書いた絵を見るのも面白い本
資料系の本って、写真とか絵が沢山あると、眺めるだけでも楽しいね


でも、なんで小杉は江差奉行並に抜擢されたんだろう?と疑問。
元は榎本の下で蒸気方・・・というと、機関士?
なぜそんな技術畑の人間を施政に。
榎本の信頼を得ていたんだろうか。
まあ、そんなこと言ったら江差奉行の松岡四郎次郎にせよ松前奉行の人見勝太郎にせよ
いわゆる軍人だったし、当時は軍も政も一緒くたに考えてただろうしなあ。


そういや小杉の上司の松岡四郎次郎って結局どんな人かわからない。
四郎なのか次郎なのかハッキリしたまい。今ハヤリの二重計上かよってんだ。

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歴史ネタじゃありませんなつかしのゲームネタ



ポートピア殺人事件。
自分が幼少時、なぜか家にあった推理ゲームでした。
多分ゲームをたくさんもってた「店長」さん(母の上司)から借りたのか貰ったのか、なのですが
せいぜいあの迷路でオデコぶつけてはヤスに「いてっ」と言われるトコまでしか進めなかった
クリアしたことはなかったのです


で、十数年後



「犯人は●●」って言葉が割りとネットで流布していて、犯人はもう知っていたのですが、やろうにもゲームもファミコン本体も実家にはあるのだがいかんせん、動かない(なんでまだあるんだ)
と思ったら。


やっぱり携帯ゲームで復活してた(´∀`)


復活しているとわかれば、やりたいなあ、と。
ヤスに「わっ!むしめがね で たいよう を みて は いけない って がっこう で ならった でしょう。ボス!」
って言われたい
はなくまちょうで、道路を取れと命令して「よいしょよいしょ、やっぱり とれませんでした」と言われたい。
みなとで、よべとやって「おーい、●●さーん、へんじ が ありません。さみしいなあ」とか言われたい。
今思えば結構シュールだ、このノリ大好き。


復活したポートピア殺人事件


だれだこいつ
ヤス?ヤスなのか。
違う、ヤスはこっちだろ!!


ゲーム以前にそっちにつっこみたいリアル世代でした。

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京都行った時のメモがあったので、転載しておいてみる。
人見家墓所の石碑(墓石)のメモ。
写真を撮ったわけではなく、メモったものなので、我ながら信用ならん(笑



人見止斎君墓

 

君諱定季字子静人見氏號齋通釋勝之丞

為人謹厚篤實目少小耽文字事親孝○官嘉

奨之先後師小沼大囿及牧戇齋研經餘暇詞

章曰慶応丙寅任文武場教官元治丁卯

徳川公在二條城召学士講經君興為賜銀若

干戊辰変後隠屏不出君以文化丁卯五月朔

日生明治辛未七月二十一日病没享年六十

四配清水氏有三男二女洛曰

長子定寧 吾識之矣 嶹嶇能堪

紘利善理 甞聞格言 利済邦国

不在地位 在千才徳 継者彊勉

日月進益 逝者泉攘 魂魄悦縲

明治辛未四年蝋月 静岡中邨正直選弁書

              孝子定寧建


=============================================

 

人見夫人僊子之墓

 

夫人諱仙子清水氏父曰貞七年二十嫁為止斎先

生之配性温厚摯於情勤倹治家又善教兒女慈而

有則有三男二女長男曰寧様寧方幕府之未能畫

志於所事樹義声於天下後為茨城令有良二千石

之稹雖止斎先生教育所致亦不無○資於母氏之

訓也次男重明出嗣遠藤氏次女君子山村氏長女

政子三男定省皆夭夫人以明治三二年十一月二

十四歿距出文化十三年得壽八十有四荼毘洛西

龍安寺埋骨於長遠寺釋諱曰霊光院仙室崇壽大姉

明治三十三年 正四位勲三等田邊太一撰弁書





我ながら○ってなんだよ。
多分石碑も古かったのと、漢字が判らなくて読めなかったんだと思うけど。



人見の母の石碑には田辺太一が撰しているんだ、と今更ながら気づいてみる。


※このあと手に入れた「人見家の人々」に全文掲載されていました。なんたるちゃ。

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榎本、沢らとともに和蘭留学に赴いた幕末の海軍士官赤松大三郎(則良)の前半生記。
御子孫の方が編纂したもの。
赤松自身の自伝もすごく読みやすくて読んでいて楽しい。


江戸表での勉学から長崎海軍伝習所での伝習、咸臨丸での渡米や築地海軍操練所、そして和蘭留学を瑞々しい視点で書いてあるのがとても面白い。


長崎海軍伝習所までの道中には、細かい父親から「旅のしおり」渡されていたり、咸臨丸での渡米で空砲撃つことにもてんやわんやしていたり、幕末の動乱と等身大の青年の姿の交錯が。


赤松を取り巻く人々の描写も多く、長崎海軍伝習生、和蘭留学生の人々もそれぞれ書き込まれている上、編纂している上で勝海舟や西周助らの日記も掲載されているので比較検証しているのも、見比べられて楽しい。

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榎本関係の書籍で、メキシコ殖民に関してはあまり勉強していなかったので改めて読書してみたのですが。


読みにくかった。文章が。
(いっそ同時に呼んでた赤松則良の半生記(赤松大三郎の自伝)の方が読みやすかった)


メキシコ殖民に関しての知識がほしかったのもあるのですが、この書籍にはちょっと前にも気になってた安藤太郎がちょこちょこと名前を出していたんですね。
どうも、安藤太郎は兼任で榎本の殖民活動にも助力していたらしいです。
結構マルチだなあ。



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こんなの見つけました
「可愛いゝ遊撃隊」

自分が好きな幕末脱走遊撃隊とは関係ないだろうけど なんだそれ



「遊撃隊」という言葉自体が結構あちこちで使われているのでなんともいえませんが
マスコット化した人見隊長とか伊庭隊長とか和多田隊長とか林隊長とか以下略

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とにかく久しぶりでした
久しぶりにオフラインで歴史好きな子達と会いました
なんつーか、微妙に本気で人見知りなので、特定の子に張り付きすぎててすみません

いろいろなにかがぽやぽやしてるので、今日はもう何も言うまい。



上海に伊藤とか井上が泊まったホテルがいまだに存在すると先輩が言ってたので、ふとそこにとまりたいといったら、血縁が上海にいるのになんでホテルに止める必要があるんだ、といわれた。いいじゃん、そのホテルに泊まりたいんだい。

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最近出た本ですが。

やっと本日手に入れたので、早速目を通しました。

人見勝太郎と荒井郁之助と甲賀源吾の部分だけ(人選がまた・・・土方榎本あたりはまだ読んでもいない)


とりあえずこれだけ。
荒井郁之助は長崎海軍伝習所には行ってないんじゃなかったですっけ。


気になってしまったので。
あと、人見勝太郎の項に載っていた、龍の杖は現物を拝見したことあります。
写真が出てきて、「あ、これ見たやつだ」と、ちょっと驚きました。
箱館戦争銘々伝、上下

図書館で借りてきた本を先に読んでしまいたいので、またあとで完読しようと思います。
榎本&メキシコ植民地関係書籍と、赤松大三郎の半生記を読書中。

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なんでFLASHなんだ、とちょっとびっくりしたけど、ここは混沌のインターネットの世界
色々あるもので、私も見つけたときはびっくりしました。
あるもんだなあ、と。
 

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人見勝太郎関係の資料をあたっていて気づくことなのですが、勝太郎の資料はかなり少ないです。


人見自身が後年になって書いている「人見寧履歴書」があるので、彼の遍歴はなんとなく掴めるのですが、それも自伝でしかなく、どうしても主観的な資料と言う位置でしかありません。
他にも人見自身で「旧幕府」や「史談会速記録」などに出席し、自身の体験を語り残しています。
また、ネット上でも見られるのですが、「函館戦争顛末漫記」があります。
その他、人見墓所に近しい系図が記されていたり、箱根にある早雲寺にある箱根遊撃隊戦死士墓などもありますが、人見自身が建てたものです。

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「人見勝太郎の遺品を展示しますので」と教えてくださった方がいまして、喜んで見に行った展示会の話。
手元のパンフレットには平成15年と書いてあるので、ざっと4年前の話です。



人見寧(勝太郎)は「土木県令」と呼ばれるほどに、茨城県令(県知事)時代には土木事業、特に治水事業には力を入れていました。
その中で一番力を入れたのが利根川と江戸川を結ぶおよそ8kmの利根運河の開削で、人見が加波山事件(民権運動)の責を負い、県令の職を解かれた後も、運河建設推進派の広瀬や色川らとともに株式会社を設立、自ら会社社長となって事業を貫徹しました。
(このため、人見・広瀬・色川の三人をして「利根運河の三狂生」と言われたそうです。)


なお、利根運河は東京と茨城間での水運に使われた運河であり、現在は導水路として使われていますが、水運の運河としては使われていません。
ちなみに、開削当時とは川の流れの向きが逆になっているそうです。
今は、豊かな自然をたたえる、とても静かな運河です。

で。

その利根運河の展示会があり、人見寧ご子孫様が人見寧の遺品を展示会に出したというお知らせをいただきました。

以下略

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最初に人見氏の菩提寺に訪れたのは、もう5年くらい前でしょうか。
こんな若輩者が突然押しかけたのに、お寺の住職様がとてもよくしてくださったのを覚えています。


うわさには、今は住職様が代わってしまったらしい(?)のですが。
そもそも最近京都なんて行っていない・・・。


人見寧墓所は、人見の出身が京都ということもあり京都市内にあります。
人見氏菩提寺は調べれば判りますが、一般公開はしていません。
その時は私はまだ学生でして、京都には頻繁に遊びに行っていました。

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